酒井甲夫
名称
志野の技法
住所
泉町定林寺
認定日
平成14年10月8日
解説
志野は、黄瀬戸、瀬戸黒、織部とともにわが国を代表する桃山陶器のひとつである。志野は、黄瀬戸や瀬戸黒を焼成した美濃の大窯において16世紀後期から末頃に誕生し、長石という新しい釉薬の開発により、わが国陶磁史上初めて絵付けを可能にした。志野は当初茶碗や向付などの茶道具として作られ始め、京方面に盛んに出荷された。程なく碗・皿などの日用品としても量産され、織部に移り変わる直前の国内産の施釉陶器の代表として全国に流通した。
志野の名称の由来は、香道の大家「志野宗信」に由来するという説など諸説あるが、志野の名称が始めて登場する16世紀と江戸時代以降では示している内容が異なっているといわれ、少なくとも17世紀末頃までには、現在と同じ内容を示すようになったといわれる。
志野は器形・鉄絵が簡素なものから複雑な装飾のものへと変化し、17世紀初頭に大窯から連房式登窯へと窯構造を変えると、織部の量産が本格化し、志野は姿を消していった。江戸時代後期以降、瀬戸において織部と同じように志野の復興が行われたが、桃山陶器には及ぶことはなかった。
昭和5年、荒川豊蔵による志野生産窯発見を契機に美濃桃山陶が再評価され、桃山志野を再現しようとする動きが高まってきた。戦後、民芸運動や川端康成の小説「千羽鶴」によって起こった志野ブームなどと相まって、荒川豊蔵を始め、林景正、加藤景秋などの美濃を代表する陶芸作家によって志野の再現がなされるに至った。
志野は、百草(もぐさ)土といわれる美濃独特の粒子が粗く焼き締まりが少ない陶土を用い、乳白色の長石釉をたっぷりと掛けている。釉膚にはピンホール(細い穴)や貫入(釉の細かいひび)が生じ、滑らかで細かい起伏のあるしっとりした手触りとなって、ところどころに赤褐色の火色が生じているのも見所である。
志野には、鬼板と呼ばれる顔料を用いて鉄絵を施した絵志野、文様のないものを無地志野、鉄化粧を施して刻線文様を施したものを鼠志野と呼んでいるほか、赤志野や紅志野などの手法がある。
酒井甲夫氏は、桃山志野の再現に研鑽を重ねられ、美濃の伝統的な原材料と技法を研究し、その原材料の再現とともに伝統的な道具や技法を追求しておられる。氏の作り出す志野は、桃山陶芸にみられる素朴で力強い造形と長石釉の柔らかで滑らかな膚合いをもち、殊に鬼板で化粧を施して長石紬を掛けたいわゆる鼠志野の技法は、釉の発色が巧妙で変化に富んでおり、単に桃山の志野の再現に留ることなく、氏独自の志野の世界を造り出している。
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